新橋演舞場六月大歌舞伎 NINAGAWA「十二夜」


十二夜」の原作はシェークスピアであり、4年前に蜷川幸雄の演出で歌舞伎化された。今年3月にはロンドン公演も行われた。菊五郎菊之助が1人2役で出演するのだが、菊之助の役の1つは、じつは男装の麗人という設定だからややこしい。序盤の菊之助の早替わりが見事だ。それだけでも見に行く価値がある。息を切らせていないのには感心至極である。

歌舞伎的にいうと3時間の通し狂言である。現代の演出だから「舞踊」もなければ「浄瑠璃」もない。2幕15場もあって、目まぐるしく舞台は変わる。これはある意味で映画だ。1つのストーリーをセットを変えながら、ほぼ俳優たちだけで演じきる。映画は西洋の演劇から派生しているのだと、妙に納得する。

いっぽう、伝統的な歌舞伎は4時間あまりのテレビだ。通常は何本かの全く異なる番組で構成されるからだ。俳優を見に行くという側面が強く、ストーリーは二の次だ。「見得」はストップモーションだし、荒事役者は変身ヒーローに近い。

個人的にはこの伝統的な歌舞伎のほうが好きだ。半日あまり芝居小屋で遊ぶという感覚が気に入っているのだ。軽いおきまりの芝居、お昼はビール1本とお弁当、午後は舞踊を見てからコーヒーを飲んで一休み、最後は愁嘆場のある芝居で〆るなんてのが好きなのだ。

十二夜」は背景が半透明の鏡で始まった。客席が写っている。この演出はあまり好きではない。さあこれから舞台と客席とで一緒になってお芝居を作りましょう、という前向きで健全な精神を感じてしまう。あくまでも「観劇」というより「芝居見物」をしたいボクとして、たじろぐばかりだ。

舞台美術は襖紙の代わりに鏡を使い、おきまりの松などの図柄を描いた襖が使われていたりする。それ自体は気にならないのだが、舞台全体を巨大な額縁で囲むという演出になっていて、その額縁の文様はアールヌーボーミュシャ風なのだ。もし、歌舞伎NINAGAWA「サロメ」が作られたとしたら、ビアズレー風になるかもしれない。序幕最後の場で、菊五郎捨助が瓢箪を股間にあててひょいと持ち上げるのだが、まさにビアズレーの趣味だ。

翫雀の安藤英竹が獅子丸と対決するために現れるところの鳴り物は「ターミネーター」だ。歌舞伎的にもおきまりの、船には「千鳥」が、騒ぎには「さわぎ」が使われている。その意味ではうまく融合された舞台なのだろう。

このお芝居は喜劇である。2幕目からは大いに笑える。亀治郎の体の動きが非常に良い。動きだけで爆笑を誘うのだ。菊五郎は当然立っているだけで爆笑だ。二人を支える左團次團蔵がいつもどおりなので、逆に安心して笑えるというものだ。翫雀が良かった。歌舞伎でも上方は喜劇に向いているのかもしれない。時蔵は相変わらずの手堅い赤姫。

さて、本命の菊之助はというと、これがなんとも困った。美しいのだか、凛々しいのだか、当然のことながら2役だと見る側の焦点が絞りきれない。早替わりというテクニカルなところに気が行ってしまう。舞台袖に引っ込んだら、いつ出てくるのかだけに気がとられてしまう。登場する場のほぼ全てて早替わりするという演出が必要だったのだろうか。

カーテンコールには困った。いつもは「はい、これでおしまいおしまい。また来てねー」という感じで、定式幕がさっさと引かれる。こちらも「あー、面白かった」で終わりだ。ところがカーテンコールがあるとこのあっさり感がない。見られる側からは「ホントに面白かったでしょ」と念押しされ、見る側は「金払ってんだからもう一度顔を見せろ」感がある。

全体的には当然のことながら現代演劇であり、江戸時代やシェークスピア時代にタイムスリップした感覚はない。折角の花道の使い方にもさほどのたいした工夫はなく、多くの場で使われる額縁付き鏡仕立ての舞台美術にも飽きる。役者はいつものメンバーなので手堅いものの、つったったままの長台詞では間延びした印象だ。ともかく粋とは無縁の舞台である。