吉例顔見世大歌舞伎・夜の部


夜の部前半は幸四郎の「ひらかな盛衰記」だ。退屈だった。真面目に台詞でも聞こうと努力しても、幸四郎段四郎も分かりにくい。最後の立ち回りで幸四郎はもうふらふらだ。瀕死の役を演じているのか、本人が本当に瀕死なのかがわからない。「権四郎、頭が高い」の名乗りも間に合わせの印象。心はすでに来月か来年の公演に飛んでるご様子。途中に友右衛門、錦之助男女蔵が出てくるのだがチョイ役。こんなのに出るくらいなら、さぞかしゴルフにでも行きたいであろうと同情する。

続く芝翫の踊りはお孫さんの宣生と一緒だ。それはそれで尊重したい。が、尊重するだけであって、感心したり、感動したりはしなかった。つまり夜の部は休憩を挟んで5時間近いのだが、見に行く価値があるのは最後の演目であって、それは2時間だったのだ。

ところで、邦楽は洋楽(クラシック)にくらべ明らかに総合的音楽性に劣る。三味線のユニゾンに合わせて、おなじくユニゾンの合唱である浄瑠璃が唄われる。メロディもハーモニーもリズムも多様な音色も音量も西洋音楽の敵ではない。しかし、邦楽には洋楽が逆立ちしてもかなわない美点がある。それは「粋」だ。西洋音楽はけっして粋を表現できないのだ。

歌舞伎もそうなのだと思う。時代物であっても粋かどうかがボクの感心事で、ドラマ性は二の次だ。『「お笑い」日本語革命』のなかで「東京は粋(いき)というが、上方では粋(すい)という」と説明がある。「粋(いき)は自分のための行為だが、粋(すい)は人のために尽くす」と関西の放送作家が説明している。なるほど上方では心中、江戸では白波物だから合点がいく。

「都鳥廓白波」は矢鱈に面白かった。菊五郎の白波物だ。粋でないわけがないのだ。冒頭に萬次郎と権十郎に連れられて梅枝が登場する。全員それぞれにお馴染みの役柄と恰好だ。春は夜鷹、冬は若君で大川端に死す梅枝は毎月成長していて恐ろしい。菊五郎に迫られて、金を貸そうか貸すまいかと逡巡するさまは役通りの子供の心情。金を貸す理由は単に「頼まれているから」貸さない理由はきっと「母親に怒られるから」だ。大人の「損得での逡巡」ではないことをきっちりと演じた。

ややあって、歌六團蔵菊之助が登場する。菊之助がそりゃもう綺麗で唖然とする。ポカンとしていたら2幕目になった。2幕目前半は時蔵が忙しい。松太郎は来る、権十郎も来る、2人は奥へ消えていく。菊之助も来る、菊五郎も奥から現れる。2人が下手に引っ込むと、権十郎が奥からあらわれて去ってゆく。そこへ大蔵が登場する。さらに團蔵菊之助がやってくる。そこからは菊五郎が忙しい。百両包みが二つと起請文と年季証文と都鳥の印とが菊五郎を真ん中にくるくる交換される。まことに忙しい芝居だ。妙なことだが歌舞伎役者は頭が悪いと務まらないなあと感心した。

3幕目は菊之助が忙しい。女から男へ、花魁から盗賊の頭へ、そして実ハ大家の嫡子へと変わり続ける。そして最後には実際に白飯を食べながらの「おまんまの立廻り」だ。もちろん菊五郎の道化役もいつもながらで面白いのだが、菊之助の黒紋付きでの飯食いが粋でとても楽しめた。

菊五郎劇団の12月は日生劇場で「合邦摂州辻」と「達陀」。1月は国立劇場で「四天王御江戸鏑」だ。だんだん気忙しくなってきた。