吉例顔見世大歌舞伎・昼の部


歌舞伎を見るときには、かならずロビーで「筋書」を買い、あらすじをじっくり読むことにしている。歌舞伎はストーリーを熟知しているほうがはるかに面白いという演劇だ。自分にとって歌舞伎は観るというより、眺めるという感じなのだ。

大相撲も観戦するというより眺めて楽しむものだと思っている。以前は頻繁に企業間の接待用として大相撲の桟敷席が使われていた。この案内状には「大相撲ご観覧のお誘い」と書かれていた。観戦しているのはテレビで見ている人たちだ。桟敷席では角番大関がたくみに千秋楽で勝ち越すという取り組みにむしろ拍手していたものだ。

ところで、盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)の通し狂言はお話がさくさく進む。かなり複雑なストーリーなので筋書を読むとよく理解できないのだが、じつは舞台はわかりやすい。話の運びが現代的だからだ。そんなこたーしゃくも承知だが、江戸っ子三五郎役の菊五郎が相変わらず粋だ。

「五人切り」でも、小万切りの場面でも、仁左衛門の源五兵衛がすっきりとしてかっこよい。源五兵衛は江戸時代であっても単なる殺人鬼なのだが、それをかっこよく演じることで、逆に恐ろしさを演出している。殺人者が常人ではないように描かれているかぎり、自分と関係のない別世界の住人として見てしまい、かえって実感がわかないからだ。

六七八右衛門の歌昇が非常によかった。歌昇の演技が示唆しているのは、六七八右衛門と源五兵衛の間の衆道関係だ。源五兵衛は両刀使いの冷酷非常な殺人鬼でもあり、忠義の志士でもあるということになる。

時蔵の小万、梅枝の菊野ともに江戸芸者の「なるようにしかならないさ」という達観が見え隠れしていて良い。小万が殺されるときにもその諦めが少し見えたほうがよいかもしれない。三世時蔵の写真がロビーに飾ってあったが、梅枝の面長は三世譲りなのだと知った。その面長の芸者がキレイ。團蔵の小悪が良い。田之助は重くも軽くもなく。

「廓文章 吉田屋」は苦手である。藤十郎のおバカな若旦那顔を見ていて、藤山寛美と「浮かれ心中」の勘三郎を思い出した。口を開いて、顔を上向きにし、目じりを垂らして、手をぶらぶらさせると万人それらしくなる。

ともあれ、今月の歌舞伎座は「八重桐」が最高だった。