『「いき」の構造』
- 作者: 九鬼周造
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/09/17
- メディア: 文庫
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それ以来哲学書を読むことは諦めていたのだが、伊藤若冲のおかげでこの本にめぐり合った。これがじつに面白い。哲学書であるから本質的には文章が難しい。『媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命的によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している』などという文がでてくる。ぜんぜん分からない。しかし、言葉の調子は清元や常磐津を聞いているときのそれに似ている。
伴奏と唄のリズムが異なるのが義太夫音楽の特徴だ。哲学書の文もそれに近いかもしれない。気をいれて聞くと意味は理解できるが、気楽にすごすと心地よい韻のみが耳に残り、それもまた楽しいのだ。
ところで、この本は本質的には難しくはない。序論での哲学的方法論についてはよく理解できないが、本論での「いき」についてのさまざまな考察についてはなるほど納得させられる。裏表紙の紹介文にあるように『横縞より縦じまが、赤・黄より茶・鼠色が「いき」なのはなぜか?』などを、お気楽な評論家などとは全く異なる次元で考察する。
歌舞伎、清元、浮世絵などの中の「いき」についても、「いきいき」と解読していく文の運びはまさに「いき」だ。引用しよう。
『「鉢巻の江戸衆」に「粋なゆかり」を象徴する助六は「若い者、間近く寄ってしやつつらを拝み奉れ、やい」と云って喧嘩を売る助六であった。「映らう色やくれなゐの薄化粧」と歌われた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。』
これこそ粋というものだ。歌舞伎の助六を知っているものであればなーるほどと理解できる。昭和5年の知識人であれば誰でも膝を打ったであろう。