Lee Morgan / Vol.3

Volume 3

Volume 3

4月。未曾有の世界的金融恐慌の真っ只中であろうとも、学生さんは卒業してしまった以上は社会人デビューしなければならないし、リタイアするまではどのような環境であろうとも明日を生き続けなければならない。世界がどんどん狭くなっている分、地球規模で活躍できるステージは拡がってる。昔から音楽文化がそうであったように。

1947年、セロニアス・モンク、30歳。1952年、ホレス・シルバー、24歳。1953年、クリフォード・ブラウン、23歳。1953年、ケニー・ドリュー、25歳。1955年、ハンク・モブレー、25歳。1956年、ジミー・スミス、31歳。1956年、リー・ モーガン、18歳。

どこかで見聞きした名前だといいが。これは、彼らがBLUE NOTEレーベルで、初リーダーアルバムを録音した年と、その時の年齢である。ジャズ・ジャイアンツと呼ばれる彼らは、BLUE NOTEからデビューした。

孤高のピアニストと呼ばれるモンクの2作目のリーダー作がPrestigeレーベルから出たのが、5年後の1952年。長くサイドマンに甘んじていたドリューのBLUE NOTEにおける2作目は8年後の1961年。ブラウンが自動車事故で他界したのが3年後の1956年。スミスやモーガンは、BLUE NOTEの看板プレイヤーとして、その後も数多くのアルバムを出し続けた。

BLUE NOTE レーベルは、常にその時代の新人にリーダー・アルバムのレコーディングの機会を与え、デビューさせてきた。弱小レーベルの悲哀で、売れっ子を使えなかったということは当然にせよ、彼らの可能性と素質を自分の感性で見出し、個人レーベルを経営し続けた、オーナーのアルフレッド・ライオンの信念には驚嘆させられる。彼は、新人のリハーサルに対しても、きちんとギャラを払っていたことが知られている。

今回は、クリフォード・ブラウンの再来と言われた、リー・モーガンLee Morgan / Vol.3 を紹介しよう。作、編曲はベニー・ゴルソン。録音は1957年だから、彼はまだ19歳。I remember Cliffordでの叙情的なプレイを聴いて欲しい。彼はJAZZシーンの最先端を走り続け、1972年にステージの合間で、愛人に射殺された、クールなトランペッターであった。

(JHS-JAZZ 山田)