成毛真の「これって暴論?」 第4回

 

團十郎と「フォーマット文化」

歌舞伎役者の市川團十郎が亡くなった。中村勘三郎に続く大名跡の訃報は歌舞伎界に計り知れない衝撃を与えた。演劇関係者はもちろん、歌舞伎ファンも唖然呆然とするばかりである。亡くなった團十郎は十二代目。350年前から続く名門の当主でもあった。

團十郎は小器用な役者ではなかった。一本調子のセリフ回し、ヌボーッとした佇まい、それでいて妙な可愛らしさ、それこそが團十郎だった。團十郎がどんな扮装をし、たとえ後ろ向きで舞台に登場しても瞬時にそれと判った。つまり、その存在を誰ひとり真似ることができない役者だった。それゆえに歌舞伎界は勘三郎の死と同等かそれ以上にショックを受けたのだ。

ユーミン桑田佳祐が歌う曲は最初の1秒を聞いただけでもそれと判る。声と歌唱法が凡百のアーティストの次元とまったく異なるからだ。もっと美しい声の持ち主もいるだろう。もっと上手な歌い手もいるはずだ。しかし、ユーミン桑田佳祐はその圧倒的な個性ゆえ、いまでもスーパースターでいつづけられるのだ。

藤田嗣治平山郁夫の絵画も、その一部分を見ただけでそれと判る。色と形が平均を逸脱しているからだ。だれも真似することができない芸術であり、それゆえに美術史に残ったのである。文学における村上春樹や映画における北野武などもそうかもしれない。

このように、ある分野で圧倒的な立場を狙うのであれば、いかに平均を逸脱するかがポイントとなる。しかし、音楽にはメロディーとハーモニーがあり、文学にはそもそも言語という制約があるように、基本となるフォーマットそのものから逸脱してしまったのでは、単なるノイズになってしまう。

じつは歌舞伎やオペラが面白いのはそのフォーマットが時間的な積み重ねのなかで、現代の芸能以上にはっきりと示されているからだ。堅苦しく古めかしいのだが、フォーマットがはっきりしているがゆえに、役者の個性がかえって光る。歌舞伎はストーリーを楽しむというよりも、役者を見に行く芸能だといわれるゆえんだ。

ビジネスに目を転じてみると自動車は世界共通フォーマットで作られている典型だ。ハンドルの形状、アクセルとブレーキのペダル位置など、発明直後にはバラバラだったものがいつしか単一フォーマットに収斂した。トヨタがその中で抜けだしたのは、トヨタ生産方式というパラノイア的な生産性改革をたゆまず続けているからだといわれる。

絶頂期のソニーもラジオ放送やカセットテープなど、すでに存在するフォーマットに準拠しながら、日本初のトランジスタラジオやウォークマンといった、突出したヒット商品を送り出してきた。

ひるがえって現代の日本企業は創造性や独創性という言葉に踊らされ、フォーマットそのものを作ることを夢見て失敗する例が多い。ガラパゴス携帯こそが良い例だ。ビジネスマンもフォーマットとは何かを体感するために、たまには歌舞伎などに足を運んでも良いかもしれない。
クーリエ・ジャポン4月号掲載)