三月大歌舞伎 昼の部

 

3月昼の部は初めて歌舞伎を観るという人にはおススメしにくい。「荒川の佐吉」は初演が昭和7年の新歌舞伎である。美しい七五調などの名台詞や「つらね」はなく、淡々と当時の日常語で会話が続く。「見得」を切る粋な場面もなく、映画のようにストーリーが進んでいく。つまり、あくまでも歌舞伎に対する新・歌舞伎なのである。

橋下大阪市長文楽に対する補助金を打ち切るにあたって、「正直、文楽を、今の若い人達が、金払ってみんなで見に行こうと思えないのは、やはり現代に合わせたやり方をやっていないからだと思います。」といっているのだが、昭和初期に「現代」に合わせた結果がこれなのである。いまもし、新・歌舞伎だけを上演したら、客の入りは半分になるかもしれない。古典である「義経千本桜」や「仮名手本忠臣蔵」などの華やかな義太夫狂言があるからこそ歌舞伎が面白いのだ。そして、文楽こそが義太夫狂言の母体なのだ。。

さてこの演目は江戸時代の設定。大工からチンピラになった子供好きの主人公。主人公の親分を襲って跡目を奪う弱肉強食に目覚めた浪人。零落したにもかかわらず主人公をチンピラ扱いしつづける暴力団幹部風の親分親子。なぜか、それでも親分の娘が生んだ盲目の赤ん坊を育てる主人公。数年経ってやっともの心ついた子供を奪いに来る親分の娘。苦労して育てた愛しい子供を引き渡して旅にでる主人公。正直わけがわかりません。

ともあれ、主役の染五郎と辰五郎役の亀鶴が清々しく、キレイで、真面目で、スキッとしていて非常に良い。お八重役の梅枝も良い。甘やかされて育ち、零落した親のおかげで貧乏しているものの、やっぱりわがままという役をきっちり演じていた。物語より役者を楽しむという意味では文句はない。

本日の「仮名手本忠臣蔵」は九段目の山科である。歌舞伎以外の演劇でこれをやると、破綻していると酷評される可能性がある。藤十郎幸四郎夫婦の超「芝居がかった」芝居と、菊五郎時蔵夫婦の超「あっさり」な芝居がぶつかりあう。まとまりがないというよりは、舞台が分離していて唖然とする。

藤十郎幸四郎はあまりに芝居がかっていて、もう何を言っているのか判らない。台詞というか唸り音をボーっと聞きながら舞台を見ていると、殺人衝動のあるちょっとオカシイ夫婦と娘が、まともな夫婦と息子が住む家に押し入って、刃物をもって大騒ぎするという物語に見えてしまう。舞台の真ん中で勝手に腹を刺して大騒ぎする夫婦と娘、それを上手下手から呆れて見ているもう一方の夫婦と息子という印象なのだ。今回、歌舞伎をはじめて観る人はきっちりと筋書きを読むか、イヤホンガイドが必要だ。それゆえに3月大歌舞伎は夜の部がおススメなのである。