吉例顔見世大歌舞伎・昼の部


客席の平均年齢がいつもになく高い日であった。となりから「○○ちゃん、若いわねぇ」とご婦人の話し声「私が中学生だったころに生まれたのよねぇ。あら!そう!今年喜寿なの」この二人組が今日の中央値だと思われるのだから、若輩ものは小さくなって見ていた。おかげで拍手もまばらである。長い間歌舞伎を見てきた人たちでろう。役者の台詞や浄瑠璃の出だしを拍手で消したりはしない。しかし、声はきっちりかかっていた。

昼の部は「河内山」と「直侍」の通し狂言である。当方の寝不足が災いしたのか幸四郎の「河内山」はどことなく退屈であった。「湯島天神境内」も「上州屋見世先」も「松江艇書院」も「玄関先」も物語は淡々と進み、ときおり幸四郎の芝居がかった名台詞は挟まるという印象だ。芝居なのだから「芝居がかっている」のは当たり前なのだが、どこかとってつけたような印象であり、いっぽうで、さあこれから名台詞という構えも取れないまま、芝居はどんどん進む。

「大口楼」で三千歳が直次郎の部屋に入って寄り添う菊五郎時蔵のご両人が良かった。若い2人のどこか清々しい情愛を感じる。赤い布団を背にしてもいやらしくないのだ。「蕎麦屋」の菊五郎は存在そのものが国宝である。贔屓目すぎるかもしれないが、蕎麦を食うのを見るだけで切符代の半分に値する、というのは言い過ぎか。かっこよいったらありゃしない。驚くほど若いのだ。

田之助は芝居が達者すぎて、いささか浮き気味に感じるほど。錦之介の出雲守は手慣れたものだが、キレ易さの具合が良い。梅枝は多角形を描く花形役者の一角を占めているという押し出し。高麗蔵がすっとしていて良かった。「妾宅」は初めてみたのだが、萬次郎がはまり役だと思う。「河内山」が淡々と進んだのは、錦吾の大膳と彦三郎の高木小左衛門の印象が薄いからかもしれない。

顔見世なのだが、昼の部の配役はさびしかった。夜の部は昼の配役に富十郎芝翫菊之助などが加わるので楽しみだ。お昼は久しぶりの歌舞伎だから、奮発して「松葉蟹ごはん」を頼んだのだが、味付けごはんに気の抜けた小さな蟹の足が乗っているだけだった。