「2月文楽公演 第2部」と「住大夫師匠のお話」


2月の第2部は近松門左衛門の「大経師昔暦」だった。ストーリーは近松おなじみのどろどろものである。思わぬ次第で京の大商家の女房と手代が肌を触れ合うことになり、やがて女中も巻き込みながら死ぬことになる悲劇だ。3段構成で真ん中の「岡崎村梅龍内の段」のキリを竹本住大夫師匠がつとめる。

住大夫師匠が語る公演は日本のプラチナチケットだ。なにしろ御歳85歳であり、いつ引退を宣言してもおかしくはない。しかもその力量は圧倒的なのだ。まったく存在感が違う。あっという間に眠気が吹っ飛び、前のめりになって聴いている自分に気づく。大変申し訳ないのだが、人形はもう添え物だ。言葉を正確に理解する必要すらない。ただごとではない世界がそこにある。なにか尋常ならざる気がはりつめる。空恐ろしくもある。

3段目は若手の掛け合い浄瑠璃なのだが、あまりの落差に呆然としてしまう。観客には若手を育てる義務がある。さんざんに言っても良いから、そこにいて聴く義務があると思う。とはいえ、住大夫師匠の感動を一気に半減させるような構成しかできなかったのであろうか。

第2部のあと、住大夫師匠のお話を1時間伺った。過去にいろいろなところでお話されているように「ほんまに近松おもしろおましたか? 陰気でっしゃろ。(語るほうも近松ものは)字あまり字足らずで大変でんねん。」から始まった。

「私、近松嫌いでんねん。仕方なく稽古しまんねん。それでも、好きになりませんねん。(結果的に稽古しなきゃならないので上達して)賞をいただきますねん。御褒美をいただくのは年とっても嬉しおっせー。」と続く。

こうして会場全体を和ませたあと、聴衆に感想を訊きはじめる。最近の劇評家の書く評論は「ピンからキリまで」褒めているだけなので、面白くないという。だから観客の本当の反応を見たいのだという。眼差しは真剣だ。こんなときにボクは「あまりの素晴らしさに涎を垂らして見てました」などと、なぜか本当のことをすっくと立って言えないのが悔しい。

東京の客は何かを学ぼうとしているように見える、という。昔から勉強は大阪で、育ててもらうのは東京で、というだともいう。だから「5月もまたきておくなはれや」と念を押す。じつはプラチナチケットだから、かなり頑張らないと買えないのだ。しかし、文楽はほぼ10年周期で浮沈を繰り返してきたため、師匠は人気絶頂のいまであっても、文楽贔屓を作ろうと努力しているのだ。

「先ほど文字久大夫を叱ってきましたねん」などといいながらちゃんと次代の大夫の名前を記憶させようとする。おかげで何年かのちに「昔は住師匠に叱られていた文字久はんも立派にならはったなあ」などと言いたくて、人々はまた劇場に足を運んでしまうのだ。(なぜかここは観客も大阪弁の真似しなければならない)

文楽界のいまについてもお話されていた。現在、大夫は30人弱、三味線は20人弱、人形遣いは40人程度だそうだ。三味線弾きを養成しなければならないと心配されていた。ところで、この3月で大阪市文楽の先輩たちを祀る浄瑠璃神社の支援を停止するらしい。これからはこの100人足らずの演者たちの福祉厚生団体である「むつみ会」が自力でお守りするしかないのだ。なんとか支援したいものだ。

文楽の三等席はたったの1500円だ。学生割引だと1100円。小さな劇場だから、オペラグラスでも持っていけば不自由はないはずだ。お腹が減ったら、しのだ寿司のお稲荷さんがお勧め。

6月、9月には東京で住大夫師匠の素浄瑠璃の会があると紹介されていた。驚くことに日にちも明確に記憶されていたのだが、このブログではあいまいにしておこう。まずはボクが切符を手にいれてからだ。