『モーセと一神教』

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

10年ほど前になるであろうか、エジプト考古学者である吉村作治先生の発掘現場にうかがったことがある。もちろんエジプトだ。発掘中の墳墓は公開中のものと違い、盗賊用の落とし穴を埋めていないし、照明も整っていないため、「インディ・ジョーンズ」そのままだった。その夜、エジプトビールを飲みながら吉村先生が不思議な話を聞かせてくれた。

紀元前14世紀ごろアメンホテプ4世がファラオに即位した。頭に変形があったこのファラオは八百万の神信仰であったエジプト宗教を改革した。すなわち唯一神アテンを信仰する一神教を開祖したのだ。

このファラオは首都もそれまでのテーベから300キロ近く離れたアマルナの地に移し、新しい住民を呼び込んで政治と宗教を一本化させたという。ところが、このファラオの治世は20年弱しか続かず、神官団に説得された次代のファラオは首都をテーベに戻した。

アマルナの地に残された人々こそがユダヤ人の祖先だというのだ。やがて異端の宗教である一神教を信じるユダヤ人たちはエジプト人に追い出されることになる。そのユダヤ人を率いたのがモーセというわけだ。

この話は吉村先生のお説だと思ったのだが、帰国してから調べてみると、精神分析学者のフロイトが1939年に本書で発表した仮説だったのだ。ところで、アメンホテプ4世の次のファラオの名前はツタンカーメンである。あの黄金のマスクを残した若き王だ。アテン神信仰時の名前はツタンカテンだった。

本書の訳者は精神病理学者であるためか「訳者まえがき」でも「解題」でも、非常に真面目で本書を楽しんでいる様子はない。アメンホテプ4世の脳が正常だったらユダヤ教キリスト教イスラム教も存在しないかもしれないという、人類史上最大の「IF」を語っている部分のみを読んで楽しむこともできる本なのだ。